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人とは 人生とは 生命とは 〜1
2009年01月30日 | 書き残したいメモ?

 

敷の時もそうやし、過去の整理の時もそうやけど、
やはり最近はよく過去を振り返る。

そして今まで考えなかったこと、あるいは、考えておきたい?ことをあえて掘り返してみるけれど、
やっぱり生命とは、とか人生とは。とか。

案外考えていそうで、そうでもない。
のほほんといってしまえば言葉は悪いけれども、深く考えたと自信を持って答えられるほど、考えたことはないかもしれない。

そこで考えてみると、そうして考えなかった原因がはっきり見えてくる。

それは「死」について、認識することもなく生きてきた、ということに大きな要因があるのかな、と感じたね。

そういうようなことを、こういう時期になって結構意識するようになって考えてみて、ある程度の結論が出たワケやれれども、
まぁ2年前にも少し書いたことと、
そこからさらに二歩くらいは進んだ答えに、今はなってるように思う。

2年前は、単に自分が無になるのが怖いかな。
なんてくらいしか考えていなかったけれど、
もう今は死ぬのは怖くは無くなってきたね。

無になるとはいえ、結局は寝てるのと同じやん?
寝てる間って寝てる意識はないし、別になんということはない。
ただ、それだけの話やね。
ただ、それだけやと思えば、怖くはないね。毎日死んでるようなもんやん。
でも全く怖くないかというとそうでもなくて、後悔して死ぬのはちょっと嫌かな。

怖くなくなってきたけれど、まだ、嫌かな。
嫌、と思わなくなった時が死に時や。
まぁ、こないかもしれへんけど、少しでも嫌じゃないときがエエね。

そう、怖いというか、満足して寝たい。そういうことやね。
満足ってムズかしくて、やっぱり後悔しないのが大事や。
「後悔したくない人生」これは2年前も共通してることやけどね。


では、人生とは何か、人ってのはなんなのか?

これはなかなかムズかしい問題で、
結論なんてないもんやね。

だけど、結論の一歩手前、章のまとめ?みたいなもんやけど、

あえていうなら、人とは生物であるということやね。

生物は必ず死ぬんやね。
熱を持つものは必ず冷える。
今、少なくとも我々の認識できる世界は、全てこの「システム」にのっとってる。
太陽は燃えているけれど、いつか燃え尽きる(はるか先)

その太陽の熱を受け取って、
地球に生まれた「生物という地球の一部のシステム」。
そのシステムのごくごく一部の生物。これが人間であって、
それ以外の何者でもないんや。

システムなんやもの。

宇宙というシステムの一部としての地球、その中の生物システム、生きるという目的のシステムなんやね。

ただ、全てのモノは、システムである。これが今言えることであって、
このシステム自体に特に意味はないねん。
あるいは、あるんかもしれへんけど、きっとそれは人間の考え付くものを超越したものやろうね。
全ての事象はシステムやねん。

そして人間は、その生きるという目的に対して、便利な機能(感情、群淘汰)を備えてる。
群淘汰のシステムを採用することで、生物としての群体を維持する。
感情によって、生きるために大切な行動をする、群の維持に貢献する。

死ぬ、これは単純に生物として効率的に生きるために採用された群淘汰のシステムの一部なんやね。
人間という生物群が生きるために、みんな死ぬ。そういうことやね。

生きる、これは生物の根源的な目的であって、死ぬ、とは相反するんやけど、
地球という限られたパイの中で、人間という群体が生きるには必要やってことやね。


ただ、人間という大きなくくりで考えずに、個人で考えると、
やっぱり死ぬことは、生きるという目的に反するために、人は死からの逃避を企てるし、そこからうまく逃げて(考えない、忘れる)ようにして日々生きている。

これは、例えばパソコンなどのシステムのように、
人自ら変更できるものなら、変更したらいい。
人は細胞コピーの失敗によって老化し、死に至るので、
そこをはばむ何かしらの手段があれば、もっと長く生きられるかもしれない。
でも、現時点それはムズかしいし、逆に遺伝子をイジるということになった場合、倫理的にどうかって話も出てくる。
でも、倫理ってもん自体が、社会的生物である人間的システムなんやけど。

とにかく、そのシステムは変更することができない限り、人はそのシステムにのっとっていく。
人間を生かすために、人は死ぬ。

そうなるならば、どうするべきか。

やっぱり後悔しないように、生きれるだけ生きる。これやね。

後悔ってのは感情っていう人間上のシステムであるし、例えば楽しいことをやるっていうのも、結局はシステム上のことになる。
全てがシステムって考えたら、それはそれで悲しいものもあるんやけれど、
そのシステムに乗ってる以上、そのシステムの中で楽しむべき。そうやね。

死ぬときに満足して死ぬ。ならば、後悔しないようにする。
それらは全て人間的感情によるものがゆえに、つまり人間らしく生きて、システム上で楽しめるだけ楽しむ。後悔しないよう心がける。

これが今のトコ考えられる、人生やね。

また、変わっていくのかもしれへんし、別にどれが真理ってこともない。

宇宙の謎はわからない。
システムやっていったって、なぜなのか、意味は?これもわからない。

そもそも、こうやって宇宙の謎を考える、意味づけしようとすること自体、
人間が生きる上で便利なシステム機能やもの。
ちゃんと考えて、また、意味づけすることって生き残ることにプラス作用をもたらしやすい。
ただ、それだけのことやね。

なら、そんな考えても仕方ないことを考えても、無駄ってことや。
システムの中で、人間としてベストと思われるよう生きる。これやね。それが人生。それが人間。


では、なぜ私が今さらになって?こういうことを考えだしたかってのは、
結局最初のほうに書いた死について深く考える機会がなかったってことによるんやけど、
なぜなら、身内の死ってのがあんまりなかった。
昔買ってた金魚が死んだとか、亀が死んだとか、そのくらいのもんで、

悲しみだとか、虚無感だとか、そういう大きな感情を人間的にもたらす身近な人の死ってのがなかった。
今だに祖父祖母全員存命やからね。
それでも体のどこかおかしくなったり、いつ亡くなってしまうんだろう・・・そう思うけれどね。

そういうことが無かったから、あまり考えなかったし、やからかどうかわからんけれど、人生についてもあんまり考えなかった。

でも、私も大人の仲間入り?をして、
働くにあたって実家を離れる公算が非常に高くなって、
そんな中で改めていろいろ考えると、結局今のような話を考える。


今さらいろいろ考えて、えらい遅れてるなぁ、なんて思ったりするけれど、
みんな一応存命で、その結果、私が死について考えなかったんであれば、
生きてるんやし、それはそれでエエやんってことも思ったわ。


ただ、今考えてそう思ったなら、日々のことできっと忘れてしまうことが多いんかもしれへんけど、
少しでも心がけようってことやね。

例えば、親孝行とかね。

親が死んだら悲しいなぁ、とか、
今親が死んで後悔することはなにか、とか。

今まで完全に迷惑かけてきたし、ワガママやったな。とかね。

だから、今さら親孝行しないと後悔するな、と思ったりしてね。

そもそもそういう感情も、何度もいうように感情なんで、所詮はシステムなんやけど、
人間である以上仕方ない。後悔するのは仕方ない。
・・・それで悩みすぎて、自分の生きることに支障をきたしてるようじゃ、それこそ本末転倒な話で、悩みすぎはよくないんやけどね。

だから、とりえずはそうムズかしくない、
「感謝の言葉」ってのを大切にしようと決めた。伝えないと後悔しそうやん?
「好き」ってのも伝えないとね。

・・・みんなに伝えてたら気持ち悪いって言われたけどね。^^
でも、言われてそんな嫌な人はいないやろうし、言っとこ。


人生とは、人間というシステム上で楽しめるだけ楽しんで、後悔のない、満足するように生きる。
これぞ人生かなぁ。




人とは 人生とは 生命とは 〜2:満足する人生
2009年02月01日 | 書き残したいメモ?


人とは 人生とは 生命とは 〜1で書いたように、

「満足する人生、これはなかなかムズかしいけれど、せめて後悔の少ない人生。」

これを目標とする場合について考えてみる。


昨今の高度情報化社会?(そんなに情報化してるとも思わないけれど)の中で、
しかも私はいろいろ考えるのが好きなタイプなので、
結構いろんなものの底が見える。

でもいろんなことが所詮は底があるものだと、あしらって何もしないのも、
それはそれでありだと思うし、それはそれで真理だと思う。
だって所詮その程度のものなんだもん。

今まで私は、どちらかというと、全てではないけれど、
比較的そういう考え方でいろいろ流してきたタイプや。

でも、改めてしっかり考えてみると、人とは 人生とは 生命とは 〜1でもいったように、
所詮人間というシステムにのってるもんで、
システムにのっている以上、システム上でベストと思われる行動をするべきやろう。

システム上である、所詮はシステムによって感じるものではあるんだけれど、
システムでしかないものだけれども、そのシステムにしか生きれない人間だからこそ、
そのシステムによって、満足する選択肢、後悔の少ない選択肢をとるべきだろう。

そう思うと、まずは手短に出来る感謝を伝えるということから始める。

ありがとうってことを思ってるのに、言われなかったら後悔しそうやん?

みんなありがとう。まずはここからやね。


あといろいろ考えてみたけど、今のトコ、親孝行かな。
身近な人が悲しそうで、自分がそれを少しでも回避させられたのに、それを怠ったりしたら。
それは後悔しそうやん?

これは親に限らずやけどね。
恋人でも、友達でもエエけど、誰かに孝行できたのに、しなかったら。とかね。
してあげたらよかった。これは一番ありそうや。

親孝行したいときに親はいないってよう耳にするしね。
後悔のないように、少しでも軽減できればいいかなぁ。


そして案外考えてみたら順位が低かったのが物欲。
買えばよかったって、そんな後悔することってある?

あとは、食欲もあるよね。
でも、これも案外低いかもしれない。
物欲も、食欲も、やっぱりある程度底が知れてるもの。

やっぱり、一番はコミュニケーション関連や。
家族、恋人、友人。そういうのが一番やね。


コミュニケーション。

当然、人間というシステム上とても重要であるがゆえに、
この欲望は、睡眠欲、食欲、性欲に匹敵するほど、
人間にとって重大なものだろうと推測できる。

やから、そういう意味でのコミュニケーションの不満足?による後悔ってのも避けたいね。
寂しいってこととかね。

そうなると、
今からかい!って話やけど、老後の寂しさったら悲しいやろうと。
どう考えてもコミュニティの不足が考えられるし、
結婚などしていなかった場合はなおさらや。子供がいなくてもなおしかりやね。

また、当然、一人暮らしになった場合もそうやろう。
相談できる人や、普段の話する人がいないそれだけでも十二分につらいやろう。
そういう意味では、結婚ってのも悪くないかもしれない。

あるいは、先述した親孝行って意味でも、結婚は該当するやろうし、
加えて子供っていうのは、「生をつなぐ」という、「生きる」ことに次ぐ、
さらに根源的な欲求にも応えるものやしね。

やから、最近は子供も欲しいし、結婚もしたくなってきた。

ただ、結婚というのは、赤の他人が一緒に暮らし、協力していくという、
非常にハイリスク&ハイストレスなものでもある。

めちゃくちゃ相性が良かった場合は、お互いにローリスクハイリターン。
ローストレスでいいことだらけやけど、
これはなかなかムズかしいねぇ。
逆に相性が悪かった場合、状況は悪くなる。

それでも、いろいろ考えても結婚は最近は随分見直してきたね。

「満足する人生、これはなかなかムズかしいけれど、せめて後悔の少ない人生。」

これには、パートナーって必要かもしれん。

しかし、パートナー、子供には相当のコスト(物理的コスト、精神的コスト)が必要であるし、
私にそんな膨大な物理的精神的コストを支払う能力があるかと自問自答してみても、
必ずしもあるようには思えない。

いろいろそれをサポートする社会的システムも崩壊しつつあるしね。
景気が悪いし、日本の見通しは決して明るくないしね。

・・・相性のイイ人。そんなん見つかるんかなぁ。

誰か紹介して欲しい・・・。




人とは 人生とは 生命とは 〜3:コミュニケーション
2009年02月02日 | 書き残したいメモ?

人とは 人生とは 生命とは 〜2:満足する人生において、
少しだけ述べたけれども、人とのコミュニケーション欲求ってのは、
かなり人間の根源的な欲求であって、かなりの人が求めるものだと思う。

それは、小さな子供から大人になっても変わらないもので、
多すぎても、逆に少なくても満足はしないかもしれないし、
その納得量?っていうの?そういうのは、人それぞれだと思う。

私の場合は、多分比較的少なめ?でも大丈夫というか、
大量にあったらあったでしんどいタイプだと思ってて、
適量ってのを常に模索?してる。

だから、大量にない分、一つ一つを大切、あるいは濃密にしたいタイプやと思う。自信はないけど。

でも、もはや今くらいの年齢になってくると、それもなかなかムズかしいってのもある。

子供の時ってのは基本的にいろんなしがらみ?がなくて、
純粋にコミュニケーションをとれたのかもしれない。
感情をぶつけるし、気ままに気の合う人と一緒にいる。

また、学校等、比較的コミュニケーションをとりやすい環境にもある。

しかし、大学・・・?はどうかわからんけど、
まぁ、子供から大人になるにしたがって、やっぱり純粋には交流はしなくなる。

いろいろ考えて、適当に付き合ったり、
雰囲気を読んだりしてね。また、感情をぶつけることもないやろう。
そうなると、深いコミュニケーションってだんだん少なくなるし、
さらに一人一人が大切になってくる。

そうやって、パートナーなり、家族なりの存在の大きさに気付くんじゃないかな。

あるいは、スゴく人間力があって、幅広い人脈に相当慕われてて、
まったく多彩なコミュニケーションをとってる人がいたなら、
案外、それはそれで人って満足できてしまうのかもしれない。


これはまた、話が違ってくるけれど、
ペットを飼うってのも、結局コミュニケーション不足による寂しさからくると思うねん。
寂しさをペットでうめる。
また、それが満足にいくなら、子供を授からない人らっていると思うし、
逆に家族をなくした悲しみからペットを飼う人っているもんね。
でも、それはそれで穴埋めになっているなら、それでいいのかもしれない。

もちろん、いろんなことにリスクがあってコストがある。
そのバランスやし、パートナーがいるリスク、コスト、メリット。
子供がいるリスク、コスト、メリット。
ペットがいるリスク、コスト、メリット。

バランスがムズかしいけれど、ありとあらゆることは、+と−で成り立ってて、
なにかがあったら、なにかがない。

命という熱量は、いつか覚める。太陽もいつか燃え尽きる。


そのアンバランスな中で、人は生きる。


コミュニケーションをとるってのにもちゃんとメリットデメリットがあって、
どちらが大きい小さいはもちろんあるけれど、

私は明らかに寂しがりだと思う、
しかも都合のいい寂しがりや(都合よく寂しくないような対人関係がいい)で、
救われない寂しがりやなワケやけれど、
それはそれなりにリスクテイクして、メリットをつかみとらないとね。

今、自分が置かれている状況を見極めながら。



人とは 人生とは 生命とは 〜4:将来設計?私の生きる日本の時代?とお墓?
2009年02月06日 | 書き残したいメモ?



いろいろ
コミュニケーション
満足する人生
人とは 人生とは 生命とは

考えてみて、正直私の考えてるところの一部しか書き出せてない気しかしないけれど、
たいぶエッセンスは出てると思うし、随分私の中でも整理されてきてるし、それを踏まえた上で考えてみる。


今の日本の状況ってのは、非常によくない。
正味なトコ、100年に一度の不況とか言われてて、
いざなぎを超えたとか言われる好況?も、あくまで日本の長期的不況の中休みであった公算が高い。

日本が良かったのは、バブル前までで、
コストが先進国に追いついた時点で、製造業中心日本は非常に苦しい。
やけれども国内が1億人以上いたりして、案外国内市場で順繰り順繰り食べていけそうな気がしたりして、内需拡大やらといわれてはいるけれど、
過去の歴史を鑑みても、またこれからを見てみても、「外需」なくしての成長はありえない。
コスト高の商品は確かに高級品ではあるけれど、あくまでそれはニッチであって、市場を大きく支配するモノにはならない。
これからの日本の成長はムズかしく、豊かな生活なんて到底ってトコやね。
中国何億人が、スグさま先進国並みになって、ザクザク日本のモノを消費してくれるなら話は別やけど、もう少し先になりそうだもの。

その、もう少し、の間に生きる私。

なかなか苦しいね。
海外の低コスト製造に押されて、だからといって資源にも乏しい日本の中で、
数少ない資源である人も減っていく。
お年寄りが増えて、若年層への負担が相当増大する。
ありとあらゆる既得権益にメスが入るかもしれない。
村社会的日本システムが崩壊して(もうしてるけど、さらに壊れて)製造業におけるアドバンテージも段々と詰められていく。
その結果製造業が徐々にアメリカのように衰退した場合、金融やソフトウェアなどのような圧倒的優位を持たない日本はどうなる。


そのような全体としてはマイナス要素の強い中で、果たして従来通りの道筋が私に適用されるのか。

例えば、これからなら結婚、子育て、etc.

一応就職できたとはいえ、よくよく考えてみると、いつぞや不安定な業界やし、
これから果たして何十年と安定的な気がしない。
私は結構悲観的なほうやから、考えすぎてるんかもしれへんけど、
多分、相当ムズかしいような気がする。

私個人だけに関わる、将来的にやりたいことを挙げるならば、

ハミルトンの腕時計が欲しい、
ワークブーツが欲しい、
アルルに旅行に行きたい、
国内だけでも見所を制覇したい

よう考えたらこんなもんで、でもささやかなようで案外この4つを満たすことで精一杯かもしれない。

まぁ逆にいえば、この4つが揃えば、私個人のやりたいことはほとんど終わるワケなんやけど。
(これから増えていく可能性があるけれど)

反対に、私個人だけにとどまらないことのほうが重要で、
孝行したいなぁ、とか、子供もいるほうがいいなぁ、とか。
これがまた非常にムズかしい。全てをかなえるのは至難の技やろう。
しかもマイナス要件の多い条件でね。
どれかを取捨選択する必要があるんかもしれん。頑張っても・・どうやろう。


あと、私個人にとどまらない問題として、お墓の問題ってあった。
ありがたいことに?私は長男やから、お墓って結構問題やなぁ。ってざっくりうっすら思ってたんやけど、
しっかり考えてみるとかなりの問題。割とずっしりしてるよね。
でも、ちょっと調べたら、お墓の性質が見えてきた。

お墓って永遠性って感じるやん。
でも全然永遠でもなんでもないのよね。
結局は墓を継ぐ人がいなくなると、管理会社なりお寺さんなりの判断で合葬される。
永代供養ってよく聞くけど、これもお金を払った期間だけやってくれるだけで、金の切れ目が縁の切れ目。合葬される。
お寺さん内部にあるちゃんとお寺に手入れされて、永久に供養されてそうなどこかの家のお墓も、あくまでその土地を貸与してるだけで、金の切れ目が縁の切れ目。

そらそうや。いつまでもお寺さんも供養してられへん。
ある一定期間(何十年)したら、その供養という仕事から解放してもらわんとね。

つまり、お金を入れてくれる人がいなくなると、その墓は維持されなくなる。

不動産なり、人が持ってる資産なりと全く一緒やね。
お墓やからといって、永久的に維持されることはまずない。
ボッシュートされんねん。

なら、お墓の意味がないと私は思う。
記念碑的に相当年数維持されるならまだしも、そのうち撤去されるなら、
記念碑、あるいは記念プレートサービスにでも名前刻んでもらったほうがよっぽどいいし、
(そういうサービスがあるのかは全く知らないけれど。)
そのお墓にかけるお金を生前使って楽しんだのがいい。

お墓は死んだ人のためじゃなく、残された人のためのもんやってよくいうけど、
まさにその通りなんやろうね。
残された人が、その人の存在があったことを確認する寄りしろとして使うんやろう。
ならそれこそ、簡単な位牌でイイと思う。
そのほうが身近に置けるしエエやん?
だから仏壇もいらんし、ほんまに位牌でエエわ。
じゃぁ遺骨はどうなるって話もあって、結局いつの日か合葬されるんやったら、
自分の好きな場所に合葬して欲しいし、それを選ぶ旅ってのもエエかもしらん。
でも、それまで一時的に墓に入れられててもコストが無駄な気がする。
墓を管轄してるってだけで、そんな思い入れもないお寺で合葬されてもねぇ。

まぁ人それぞれなんやけど。
私は、(今のトコ)そんな気がする。

幸い私は、本家ではない(苗字の本家でなく、祖父が抜けた?)から、
多分祖父の立てた墓?で、そない歴史もないやろうし、気楽に考えようかな、というのが今の結論やね。
人間死んだらなんもようわからんワケで、そういう今述べたような墓の維持に関する情報を聞いてから
(本当に真実かはまだ未確認やから、誰か賢い人に教えて欲しいトコロやけど)
余計に墓はいらない気になってきたわ。。

やからあれやね。
墓を作るくらいなら、なんしか前人未到の記録(なんでもいいけど)を作って、
名前を記念に残すってのがエエかもしれんね。まぁいうても、そう簡単なもんやないし、でも、そのほうが墓よりはよっぽどエエね。
逆に、そういうのを老後の楽しみに生きるのもエエかもしらん。


とにかく、そういうマイナス要件の中で、いかに効率よく生きるか、後悔の少ない満足した人生を送るか。
そういう意識を常にもっておく必要があるし、今からどんどん練っておくべきやね。
まぁ、なんとなく決まってるけどね。
取捨選択は取捨選択でも、そのバランス。これが重要や。
たとえどんな選択肢になっても、その中でなるべくベストをやね。
必ず選択には影の部分がある。でも、その影を悔やむ気持ちすら人とは 人生とは 生命とはで少し述べたように、人間のシステムやと割り切ることやね。
そう簡単やないけどね。
全てはシステムの上にある。


結局は、日本経済も群淘汰というシステムの波に今もまれていて、
お墓も人間の感情というシステムの一環であるし、それを収めるシステム部品に過ぎないね。
ありとあらゆるものがそう出来てる。
生きる、ことそのものがそういうもんやね。

人生死ぬまでの暇つぶし。うまく潰したいもんや。




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